麻鈴史

APU生のわたしが感じたことを忘れないための覚え書きブログ。コメントお待ちしてます😊

まりん史〜前編〜

3つの中間テストが終了しました!あとはEssayに集中するのみとなりました。

ということで、今回から2回連続で、まりん史というタイトルに準えてわたしの歴史をご紹介したいと思います。

 
1994年5月9日、2100グラム、仮死状態で生まれました。退院後すぐに高熱。再入院といろいろ大変だったみたいです。自分では覚えていません。でも1歳半で話していたわたしは、お腹の中苦しかったのと話していたらしい。これまた覚えていません笑
 
わたしが生まれ育った町は茨城県鹿嶋市。自然豊かで、家の隣は塚、車で10分弱走ると海岸、そして、鹿島サッカースタジアムまでもとても近いです。田舎ですが、住めば都。東京までも最寄りのバスターミナルから高速バスで約1時間15分なので、気軽に東京へも行けます。サツマイモが美味しくて、冬はこたつにみかんではなく、こたつに干し芋です☺️
 
幼稚園•小学校時代のわたしはとにかく負けん気が強かった。負けず嫌いで、強情で、生意気な子供だったと思います。でも素敵なお友達との関わり、達成感を味わう出来事、理不尽で悔しい経験を経てだんだん角が取れていき形成されたのが今のわたしです。
 
幼稚園から小学校卒業まで多い時には、6つくらいの習い事を掛け持ちしていました。今考えると子役タレント並みにスケジュール詰まってたと思います。ピアノ、バイオリン、習字、バレエ、公文、合唱団、塾等と忙しかった!けど、毎日楽しかったなとざっくりと、だけどプラスの感情が私の中に残っています。
 
昔から音楽と私は切っても切り離せない関係にありました。小さい頃はモーニング娘。になりたかった!歌って踊れるスーパーアイドルに笑 LOVEマシーンを歌っていた時、最後のラブマッシーンといささやきがタマシー(魂)と聞こえていて。堂々とタマシーと歌い、お父さんと一緒に車に乗っていた幼馴染に爆笑されたことはある意味伝説です。その時から好きだったハロー!プロジェクト(ハロプロ)は今でもわたしを元気にしてくれることの一つです。
 
今振り返ると、小さい頃に父と母と3人で日常的に食卓を囲んだ記憶があんまりなくて、常に忙しかった2人。毎日決まった時間に3人で食卓を囲んでというよくあるドラマのような時間は週に1回?とかきっとそれぐらいだったと思います。いつも父か母どちらかはいなかったような。なので、おばあちゃん、おじいちゃんと食べるご飯の記憶の方が多いですね。だからこそ運動会の時のお母さんの手作り弁当がすごく嬉しくて、大好きなから揚げ、枝豆とうずらの串、たらこおにぎり、おかかおにぎりなどなど。運動会の時は前の日からわくわくしてた気がします。でも、一人っ子で忙しい家庭で育ったにもかかわらず不思議と寂しくなかったのは、愛犬がいたことと、両親が限られた時間の中でもわたしの話をちゃんと聞いてくれてたからだなとこの歳になり気がつきました。最近、街中でも子供が親に話しかけてるのに携帯に夢中になってる親子をみるけど、うちはそんなこと全然なくて。『聞いてよー』というとどうしたの?と必ず耳を傾けてくれてたなと。それは今でも変わらないけど、そういう時間があったからわたしはグレることなく(たぶん)育ったんだと思います。(子供から見る見るみずい家流教育論はいつか詳しく書きます。)
 
中学生になったわたし。念願だった私立に通います。オーケストラ部でバイオリンを弾いてました。後にも先にもあんなにバイオリン漬けな日々はもうないと思う。実力に伴わず中等部のコンミスをやらせていただいたり、学園祭で中等部のオケをやったり、セッションしたり。よく親友と朝練、昼練してたなあ。
いろんな経験をした中学時代。悔しい思いもたくさんしたけど、3年間の中での1番の収穫は、『人を変えることはとても難しいけど、自分が変われば環境も周りの人も変わる』ということを体験できたこと。もう無理、やってられないと思うような理不尽なことにもぶつかりました。でも、真正面からぶつかることだけが全てじゃないと。自分が柔軟に変化して、自分の手でもっと人生を生きやすくする術を学んだ中学時代に今は本当に感謝しています。
 
細かく見ていくと、映画撮れるくらいの量になりそうなので、この辺にしておきます。まりん史〜前編〜は幼少時代から中学時代まででした。次回はまりん史〜後編〜をお送りします。中3の夏の出会いから現在までのわたしの歴史、どうぞお楽しみに☺️ (ラジオのエンディングを意識です。)